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ニッポンヴィジョンズ審査員特別賞受賞作品 日本零年三部作第二部、『DUAL CITY』の情報は→ http://ek-stase.under.jp

日本零年三部作、第一作『イリュミナシオン』予告編

撮影終了、ゾーン1まとめ

映画 film idea イリュミナシオン

映画、撮影終了しました。

スタッフ、キャストの皆さん、ありがとうございました。

一月から四ヶ月間、撮りきれてホッとしています。

 

 

まず、最後まで何もかもを支えてくれたトム、ありがとうございました。

トムがいなかったら何も出来ないのは周知の事実なので言う必要はないと思っていましたが、改めてお礼を言わせてもらいます。

 

忙しい中、実現不可能なことを溢れる情熱で可能にしてくれたトミー、

一番スケールが大きい、一番難しいことを考えた時、必ず助けてくれる高野さん、ありがとうございました。

 

基礎を一から教えてくださり、物心ともに、すごい勢いで底上げをしてくださった宮田さん、ありがとうございました。

 

 

心から尊敬しています。

  

 

映画に出ると言ってくれた、キャストの皆さん。

 

大阪から来てくれ、知識と人間性で、映画のスピリットに奥行きを出してくれた諒君

 

一度しか会ったことがなかったのに出演を承諾してくれ、ミステリアスで唯一無二な雰囲気と作品で映画を満たしてくれた、ミキちゃん

 

心臓とか記憶のような存在、トミー

 

アポロンとしてデュオニソスとして、ドンキホーテとしてロシナンテとして、異質な炎とインスピレーションを与え続けてくれたミューズ、ゆうせい君

 

トム 

 

無茶ぶりをしたくなる美しい人、石田君

 

 

ただ撮るだけで、信じて、信じさせてくれた人、ヒロ君。

 

 

 他スタッフの皆様。

前からファンだった加藤君

私にない強かな感覚で場を仕切ってくれる伊藤君

高校(ほとんど行っていなかった)からの唯一の友達!ネギシさん

自分のことを理解してくれる人、井上さん

ものすごく遠くから重要なテーマを送ってくれるデフィーさん

大きなチャンスを与えてくれた清水さん

相談を沢山聞いてくれ、少年的な感性を教えてくれたいつも優しい晋平君、

地獄にすら(にこそ)、もしかしたら来てくれるのかもしれない人、 田邊君

 

忙しい中、ありがとうございました。

 

 

まだ映画製作的には三分の一のゾーンが終わっただけなので、また頭を切り替えてやっていくつもりです。

特にインタビューや音声などはこれからになるので、引き続き、よろしくお願いいたします。

 

 

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以下にやや乱雑にゾーン1のまとめを

 

発案〜撮影演出ゾーンでは、何と言っても、不可能を切り捨てることが私にとって大事だった。

その根拠となったのは、「探しまわっても近くに無いものなら、今の私に撮る資格はないものだ」といった考え方だ。

これには賛否あると思う

 

最初は、とにかく言い訳できないほど自分の為だけに、何かを撮る必要があり、娘を亡くした後も娘のアパートをずっと借りている女性を三日くらいのスケジュールで低予算でシンプルに撮ろうとか、「うぐいす」という、少年と病気のおばあさんが主人公の、自分の好きな記憶の中の童話を撮ろうとか考えていたが(テーマは今考えると、どっちも死んでいく誰かと、その人への自己犠牲的な献身(は、意味があることだ。)。)、自分にとって透明に思える出演者をしばらく探しても出会えなかった。

 

ある時、色々あってスタバでぼーっとしていると、本当にぴったりの女性を見つけたので、声をかけ、映画を含めて色々な人生の話をしたが(自分はシャイなので、本当に心動かされる人じゃないとこんなことは出来ない)、代わりに、自分の母親の友達を出したらどうか?と根本的なアドバイスを貰った。その時に自分の40代〜50代女性のイメージは全て幻想なんだと気づいた。言ってみれば、自分はジーナ・ローランズを探していたのかもしれないけど、ジーナはカサヴェテスの奥さんだ。

 

ここまで探しまわっても距離の縮まらない人物像についての映画を撮るということはどういうことか?

 

その考えの後、アンソロジーを読みあさる中で、ギュヨタの『売淫』という一編と出会った。これは非常に難解で、全ては翻訳されていない。でも一人称の部分の迫真性がテキストでは幾年ぶりだろうかというほどに、興奮を誘った。暗唱したいほどに!「殺せ、殺せ、殺せ・・・抱け!・・・・・・誰を?」私の好きになりそうな現実への攻撃性と、覚めた熱狂、ロマンティシズムだ。ゆうせい君とトムと私だけでこれを映画化しようと思った。しかしその後ギュヨタの「エロティシズムほど退屈なものはない、ポルノグラフィこそが〜」発言、他作品に当たり、勿論この男同士のセックスをマテリアルとした一編に、私が女性についての映画製作に感じた以上の幻想性を廃棄しつつ近づくことが可能とは現時点で思えなかったため、それまでに考えていたすべてのことをもう一度考え直すことにした。

具体的には2011年のこと、2012年のこと、2013年と現在のことである。

特に2012年の関西地方の旅へ出た辺りに出会った様々な影響からの、「時間とは本当にあるのか?」という発想、未来まで続く2011年に起こった全てのことは大きい。

そして、人間の根本的な願望は何か?と考えた際の個人的結論、「死んだ人と会うことと時間を超えること」、またこれら二つの可能性が含むパラドックスに思い当たった。

 

そして、現実逃避をやめ、日本零年という壮大すぎるテーマに対して近づくにはどうしたらいいか、簡単であると思った。それはむしろ映画だからこそできる。自分の近くにいる人々、少し手をのばせば届く人々、自分に現に影響を与えている人々を撮りたいと思った。ただし、前述した不可能性を素材とした大きな書き割りを背景に。

 

一方でこの『売淫』はこの映画に部分的に残っているし、女性というテーマ、『売淫』に感じる迫真さは、私が根本的に撮りたいもの、私を通して現したいことの核であることは確実だ。ただ今の自分の周りには、その世界はなく、全て幻想になってしまう、とその時点では思った。逆を言えば、幻想は撮りたくはなかった。何かを作り出す必要は全くない。自分が何を持っているのかを考えるのを今回は優先した。この考え方は最近のもので、もしかしたら写真を通して得た何かなのかもしれない。

 

同様に、しばらく募集していた撮影監督だったが、今回は最後の一日以外、自分で撮った。結果としては、面白かったし有機的でストレスフリーな部分も、発見もあった。撮影監督という存在は、現場で、表面的にも実質的にも力を持つことになる。特に自分のような人間だと、理解して創造的に取り入れてくれる人間じゃないと、簡単に車のボディは崩壊する。自分は自分なので、それはやりやすかった。

ただ、やっぱりビックリしたいし空手でやりたいから、才能あるカメラマンがいるなら、それはとても素晴らしいことだ。

 

そして最後に、映画を撮っていない時期の過ごし方について、考え始めた。基本的に映画監督というのは、撮れない。撮っているだけの間は映画監督じゃない。この当然の掟に気づけたのは良かった。