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treasure

ニッポンヴィジョンズ審査員特別賞受賞作品 日本零年三部作第二部、『DUAL CITY』の情報は→ http://ek-stase.under.jp

日本零年三部作、第一作『イリュミナシオン』予告編

holy actors

映像美。

 

官能性が深い、どこか足りないほどスケールの大きい、

 

あと映画的な肉体性を持った

 

怪物の様な

 

現実離れした瞬間のある

 

繊細さよりは強さを

 

冷たい表面ではなく、どこまでも沈み込むような深淵を

 

こないだ先輩と会った時も、ふと言われた、ほら、ニーチェも例の、「深淵をのぞき込む時は、のぞかれている」って

 

だからトロピカルとか言ったのかもしれないなぁと思う。

笑う時、君は恐れているのだと。熱帯は見えないものばかりで満ちている。

私は海から来たのか森から来たのか。雨と共に来たのか。

聖なる役者は、今回、南進する

自分にとって、真に価値があることは、恐ろしさというよりは、美しさや悲しさで、もっと具体的な形で現れ、捉えようとした。生き残った人の表情だったり、生死も関係のないどこかから響いてくる、声(気付くか気付かないかとは無関係に)。

映画だけが、驚くほど簡単に、語れる様なものだが、それは小説(デュラス、フォークナー・・もっと何かあったと思うけど、忘れてしまった)にも時に存在した。

鼓膜がなければ声は聴こえず、網膜や、レンズや。。もろもろの機械がなければ、映像は見えない

でも、この世の零地点には、原始の、映像があると。

声は心の中に広い世界があって、そこにどこからともなく触れてくる

でもそれは、自分にとっては、『感覚』でもあった。(全く手が届かないのに、なぜだろう 音は光より遅れて来て、私のスケールとは全く違うのに)

ルノワールの『河』にはそれがあった

瞬間、という意味では王家衛にもあるはずで、王家衛は私の時代につながっている

物語と構造を、切っては切れないものに。

すべてを的確に。

記録ではなく忘却のために。

思いやりながら、信心深く、「食べれば、きっとすべて元通りになるよ」という。文字の欠片を貼付けておくだけでは足りなかった。それだけでは記憶は戻らない。何かが触れて、揺さぶり、流れなくては。

 

信じられるか、美しいか。

 

 

デュラスは完成作を誰にも見せず、土に埋めてもいいと言った。

それもわかりながら、人が自分の内面について、全く何も知らないのだと気付く時は、構築物は、これで死んでも安心だと思えるような自分の生命の破片にもなりうるのだと思う。

私から、何かに向けて作る、作り終わった後で、その空間に留まり、流れるものを見て、誰かが私を少しだけ、だけど真に、理解してくれもするかもしれないなとふと思えれば、それはもう、あらゆるレベルで成功といってもいいだろう。私であることを捨てることで、逆に、気持ちよりももっと基盤になってる何か、を理解してくれるかもしれないと思うことや、遠い場所に届くのは、不思議だ。でも私の命とその延長が、誰に聞くまでもなく、私のものである(と、少なくとも言い張る)ことは、同じくらい、大事だ。

人生は短い。退屈はしない。

やりたいこと全部やり、始まりも、終わりも知りたい。