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ニッポンヴィジョンズ審査員特別賞受賞作品 日本零年三部作第二部、『DUAL CITY』の情報は→ http://ek-stase.under.jp

日本零年三部作、第一作『イリュミナシオン』予告編

to be,or Surf to be //あいち国際女性映画祭コンペティション部門にノミネート、上映があります。

 

*補足(8/12 )

yoknapatofa.hatenablog.com

 

Dual Cityを、あいち国際女性映画祭2016コンペティション部門にノミネートしていただいて、二回上映がございます。私もご挨拶にうかがいます。

 

ステレオと字幕の調整のために昨日一晩久しぶりに観てました。
映画を撮ったすぐ後は一年中何度も編集をやっていたから(大阪バージョンとは結果的に音声全体+5.1、CGパワーアップ、追加シーンなど大きく何度も変わってます。)初めて長い時間と距離をとって観ることができた。

 

昨日はすごく冷静で、そこに生まれたものだけを初めて観られた気がした。そのとき、それは果てしなく遠くにある、同じような現実の中で、目の前を駆け抜ける世界や人々だった。

そういった遠くに確かにある現実と、一瞬だけつながる窓のようなものに成れるのが、私にとっての映画の力の一つです。

 この映画を観たら、その窓を通して、生きて行くときに何回か力になれるような、熱い塊と軽妙さみたいなものを、受け取っていただけると思います。


一年経って、いまの時代に必要な映画を撮れてたんだ、という自覚が生まれました。

「難解さを絶妙にわかりやすくしている!」と評判の、映像翻訳アカデミー様の字幕とともに。ぜひ観ていただきたいです。

 

 

9/10(土)13:30〜15:10

ウィルあいち大会議室

*監督挨拶、Q&Aあり

9/11(日)09:30〜11:10

愛知県青年の家(岡崎市美合町並松1−2)

字幕付き、ステレオ音声での上映です。

http://www.aiwff.com/2016/films/competition/dual-city

 

<Aichi International Women’s Film Festival>

http://www.aiwff.com/2016/en/films/competition/dual-city

10 Sep. Sat. 13:30 Conference Room

*with Director Q&A

11 Sep. o9:30~11:10 Aichi Prefectual Youth House

English Script,Stereo Sound

 

 

 

 

 

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【中性】

ある頃から、自分の最も憧れている芸術家の半分以上が、女性になった。

そしてその前には、「女性に本当の芸術は作れないのだ」と思っている時期さえあった。

例えばクレール・ドゥニは、「映画は臓腑から作るのではない」というようなことを言っていた。はじめはドゥニのこの言葉が、過剰反応(それまでの女性芸術家の女性的性質への、またはそのカッコ付きの受け入れられ方への、そして自らが女性であることへの..)すぎるように聞こえた。それは翻っていえば、私自身の女性への、過剰反応であったのだろう。

ドゥニの節度ある眼差しは人間性を備えていて、それは、「女性監督の映画として傑作」なのではない。彼女は男性の葛藤を、女性と同じくらい描いている。(撮影監督アニエス・ゴダールも女性である。)ドゥニの映画の中では男が女を欲望したり、女が男を欲望したり、カメラがすごくクールに移動したり女が神聖な怪物のように描かれていたりする。作品からは、監督した人間の性を感じさせない、不思議な中立性と透徹した精神がある。彼女は70になったいま、メインストリーム、ハリウッドで宇宙を舞台にしたSF映画を撮るという新たな驚くべき挑戦をしている。

中性でいること。理性的であること。これは、私のテーマでもあった。

 

【女性の見せていない女性、男性が見せてきた女性】

一方、J.L.ゴダールが、「映画史」の中で言ってた"卑劣な映画"について..。「(ある女性監督)は、男がズボンをおろすところを撮れない..彼女にはそれが怖いのです..」私は、「当たり前だろ」と思う。女性には限界がある。男と共存する世界での。でもゴダールの挑発は為になる。実際ゴダールのする様な問題提起を、男だけではなく女もしない。  

女は何を撮るべきなのか。

私は昔から、男が描く女に、気づかされる思いだった。溝口健二の様なこだわりで女を、知ることはできないと思ったし、ブレッソンのような輪郭で女を、まざまざと捉えることはできない。

 

女子高生コンクリート事件の映画を、なぜ男性ではなく、女性が、撮らなかったのか?

勿論それは、撮れる訳がないから。(こう書くだけでも、本当に辛い。)

だけどゴダールが言う言葉を、私はここまで現実的に受け止めるべきだと思う。

そして、いくつかの映画、事柄に対して、「なぜ女性が撮らなかったのか」と思う。

女性にはどうしたって撮れそうもないものがある。撮れないからこそ撮れるものが。 

 

 

【女性の見せてきた女性/不可能なことを可能にする】

暴力に対する最も正当な女性的表現が、私はサラ・ケインがクレインズドの中で、暴力を受けている最愛の人、グレースを見ているしか無いグレアムに言わせた、「Surf」という言葉だと思えてしまう。

なぜなら既にそれはあらゆるところで存在したからだ。

そして、当事者である女には、暴力の後、破綻の後、生き延びることが選択肢にあるからだ。

 

タイタスのラヴィニアは婚前の「純潔」(=社会的な言葉)を犯され、舌と両手を切られることで、それまで見たことがなかったような、無垢さと...(子供と行動しているので、その違いはわかる。)吸引力のある存在となっていた。

シェイクスピアの世界では彼女らはクライマックスの少し前で死んでしまう。存在してはいけないのだろう。

だから彼女らが魅力的に思えるのは、私が女性であるからなのかもしれない。(オフィーリアや、ラヴィニアの視点の海外のお芝居もあるそうだ。)

 

デュラスも、女たちを、決して殺したりはしない。

幼い頃の記憶の中の、美しい不貞で死んだ女の、たがが外れた生を、幼い頃道端で見た乞食女の、ガンジス河までの道とそれからの長い生を、

社会的には終わったそれらを、何度も書き続ける。

そこには同じ女として、切り捨てられない、持続しつづける、抜き差しならない、留まって見つめ続けたい、何かがある。

 

女性も、男性も、私も、誰かも、満足するような語り方、見方、題材はあるのだろうか?

私が女として女の描き方に敏感であるように、誰かは誰かとして、何かの描き方に敏感で、

よく、誰かに当てた手紙が一番名文だったりするように、

自分にとって世の中をもっと深く広く繊細な痛覚を持って知るためには、親しい誰かの肉体や言葉や生きてきた経験や、見ている風景が必要だ。

私も私としてあることで、その人の世界を広げられる人間でありたい。

 

私の体はアジア人女性で、心は天秤座のA型。

私は女性として生まれた!