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ニッポンヴィジョンズ審査員特別賞受賞作品 日本零年三部作第二部、『DUAL CITY』の情報は→ http://ek-stase.under.jp

日本零年三部作、第一作『イリュミナシオン』予告編

Space Cadetに写真作品『Ascension River』掲載 +補足

 

*一日経ってみて、昨日書いたことで、特にゴダールの、女性が撮る映画についての発言に関して、改めて書きたいところがあったので、引用など加えて夜にまた正確に書く

できれば自分が実際に無意識に映画の中でやってきたこと、女性と男性を描くことが、ここまでは、次の映画の課題にもなってきたことなども書きたい*

 

>>2週間後>>(8/30日)

夜に書くと言って、かなり時間が経ってしまって、申し訳ないのですが、

この間PC作業を夜を徹してしておりました。。

 

さて、先日書きたいことについて宣言して、一番、自分の中の女性性と男性性が露わに見えたのが、この作品だと思うものを、ちょうど、Space Cadetに掲載していただきました。

2013年に、キヤノン写真新世紀で佳作を受賞した時の写真のシリーズで、『Ascension River』というタイトル、

 

spacecadet.jp

 

f:id:yoknahasegawa:20160830194622p:plain

 

 

内容は、2012年、

中国人の画家の女の子をSkype越しに撮ったもの(雑誌infomentalで特集したティアンジャ・シャオ)、

イリュミナシオンにも主演してくれたヒロを撮ったもの、

ネット上にあった情報を元に、某連続事件の現場やその周辺を撮ったもの、

Google Mapで私が撮ったそれら全ての場所をもう一度スクリーンショットしたもの、

で構成されていて、

私は当時(も今も)、同名の小説、そして映画を構想していた。

事件については、ネットに文字では書きませんが、当時展覧会でお話する機会があった時には言いました。私自身は、犯罪というのは、その人ひとりのアイディア/問題ではなくて、とても地続きな、その時代の無意識的な要素が影響していると思うので状況の方がいつも気になってしまうのだけど、実際のところ、インターネット上では推測だけで、何のローカルな具体的情報もない。だからかなり倒錯した「現場百遍」、「プライベートアイ」を自ら演じるような形で、調査をしていました。今自分が住んでいるところからはとても遠い地方なので、実際には数回行った程度ですが、かなりその土地自体に心を掴まれてしまって、映画も落ち着いてきたので、また近々行くと思います。その際、現場を確認したり、実際に行けなくてGoogle Mapでいちいち確認していた時に、また、中国にいるティアンジャの住んでいる場所を上から見た時に、とても不思議な感覚を覚えて、それらを写真、としてまとめました。

 

続いて、アセンションというのは、2012年にスピリチュアル界で起こると言われていた現象で、友達と話している時に、ふとその子が、「時間なんて本当はないのかもしれないし」と言って、印象的に思っていたところ、その後、この事件現場を巡る前に行った、年末年始の聖山ツアー(

∇Ok▲∀‰†O∬∇ : HOLY MOUNTAIN TOUR : 3 高野山,

∇Ok▲∀‰†O∬∇ : HOLY MOUNTAIN TOUR 2 岡山 etc..)

の時に一泊させていただいた、bangiさん(ユーロスペースのデュアルシティ上映1日目の時に、トークゲストに来ていただきました)も、2012年に、全部の進歩が止まって、時間がなくなる、といったことをおっしゃっていて、全然関係ない二人が、全く同じ、「時間がなくなる」という発想にいたるのは何故なんだろうか?と思ったのがきっかけです。

時間のない淀んでるのか流れてるのかわからない場所で再会しつづけるようなイメージです。

日本零年やイリュミナシオンの、タイムトラベルできるドラッグのアイディアにも至りました。イリュミナシオン(with English Script )

www.youtube.com

 

私は理詰めでこの写真を最終的には47枚選んで、地図状に並べた。

地図というのは、私が地面を足で歩いた空間を表せるとともに、

映像とは違い、リニアな時間に拘束されず、地続きで全く無関係なものを関係させる方法で採用した。

 

こういった動機が先だったので、現実的に、ティアンジャやヒロの印象操作を私がすることは一切なかった。 

女性と男性の話に戻ると、 

アセンション・リバーでは、私(女)が撮影者で、ティアンジャはとてもエロティックに、ヒロはとても観想的に撮られている。

見る人は、ヒロとティアンジャを結びつけるだろう。でもその間には私がいる。

 

これらは事実、こういう風な関係性だったから、そう撮れた、それこそ「事実」だけど、女性を撮るということにおける、進歩があるとしたら、撮影者である私が、女性である、ということくらいかもしれない。(今、咄嗟に、『つまり、私が撮っていたのはエロティシズムなのかどうか?』という言葉が頭の中で聞こえてきたけど、(もちろんエロティシズムだけではないが)、正確な意味は自分ではよくわからない。でも後でわかるかもしれないから付記しておく。)

 

そして次の『イリュミナシオン』でも、ミキは紅一点で、女子高生で、男女の関係性は旧態依然としている様に見えるかもしれない。実際、私はミキをかなり「女の子として扱って」、特別待遇して描いていたと思う。でもどちらかというと私は彼らを、性のない存在(だけど親しみあっている存在)の様に描きたいと思っていた。

こう書くと、ある時、石井達朗先生(私が学生時代、単位を取れた数少ない授業の先生であり、恩師..)が私に(初めて舞台作品を発表して観にきていただいた時だった)、「舞台に人が立てば、その人の性、女性であるか、男性であるか、それは明らかに現れる(=人に性があることは、そこに人がいるとき、絶対に不問にできない)」と強くおっしゃって、それに、目がさめるような印象を受けたことを思い出す。

 

確かに、かなり無意識な割り振りがあった。私の中で理想とする女性性、男性性がまずあって、それを体の性別と一致させ、社会的な性別と一致させ、割り振った。それは、性別の方に特別な意識を向けない判断だったと思う。例えば倉田が女でも良かったと思うし、ヨウスケが女でも良かったと思うけど、そうなると、関係性の意味は曖昧ではなく、限定され、変わってしまうだろう とその時は感じていた。

 

『デュアル・シティ』では、そういった意味でも能動的、もしくは巻き込まれて行動せざるを得ない女性を描くのは、とても課題だった。結果についてはぜひ、ご感想をいただきたい。

 

 

 

また、女性について書くとなると、どうしても吉田吉重監督になる..

前回書いたことについて、正確にしたかった訳だけど、それについては、ゴダールというよりも、吉田監督を指し示すだけで、私の中の女性性を描くことの問題は明確になる。

煉獄エロイカの、尋問中、虐殺されて死んだ女活動家が、軽やかにスキップしながら、画面上に復活するシーン。

 

あのシーンの凄さというのは、一言で言って、魂の汚れなさを実感した。

汚れなき人間の尊厳、、というと、大それた言葉だけど、

一人の女を、無残な死から、完璧に復活させ、すくいあげ、彼女の最も高貴な瞬間、と同時に本質的な瞬間、に戻している。

何事もなかった、ないように、

高らかに

 

 

鏡の女たちの、「戦後、女は男に頼るほかなかった」と語る、岡田茉莉子

 

 

フィルムノワールの様に、黒から「白くなっていく女」

 

 

 

 

 

 

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最後に全く余談ですが、ゴダールの本から遠く離れて、実はこの間に一冊、違う本を読破してしまった。

グレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』........。

 検索したら、格好いい画像が...

 photo CoastSlabcopy.jpg

 

 

本当に興奮して、映像の書き出しで『残り20時間..』とモニターに出ている時に、やけで一気読みしてしまった。。

昔から傑作だというのは聞いていて、復刊した時に買ったままだったのを、読みました。きっかけは、途中の「バスルームのシーン」を当てずっぽうに読んでみて、なんて格好いいシーン!と思い、それからは早かった。

この小説は、普通の小説や映画がこれで終わりそうだというところから本当に始まるのがすごい。そして、夢の世界や想像上では可能かもしれないが、現実に持ってくると崩れてしまいそうなことを、完璧に「言葉で」作り上げている。

人類がどんどんいなくなって変形し、一つになっていくのだが、それが悪いことではなく、むしろ、とても幸せな感覚になる。

 

<血の音楽>が聞こえる..

 

という言葉を含め、すごく瞑想的で詩的。そして<わかる>。

また、ソ連が核を落として戦争が始まったりと、緊迫した時代背景もとても見えてきて、100年後、200年後、宇宙人に渡す本には間違いなく入っているだろう。

 

 

SF界は、頭脳明晰だったりエンジニアだったりな女性が沢山出てきたりもするので、面白いのだけど、この小説の場合は、むしろ、森羅万象が変化していく中でも、とてもシンプルで無垢な生命力を持って、何事も恐れない勇敢さ、無知で全知であるもの、を女性たちがユーモラスに表していた。

そして男たちも、マッドサイエンティストだったり、武士の様な天才科学者だったり、友達や家族思いの平均的な男(average man)だったり、とても無力でありながら、超人的な決断をする人々で、魅力的だった。

 

中盤、北米のほとんどの人類の体が変化していく中、ひとり残され奮闘するスージーは、それまでの小説の印象を全て覆して引っ張っていく。

大勢の人間と一緒の共同体になることではなく、自分ひとりである可能性を求めたいと思い、誰か何かを探して歩き続けること

 この女性像は実は、「ひとりひたすら歩く女」と私が呼んでいる好きな女性像の系譜に当たる。(八月の光、ラホールの副領事、未読ですが『イーダの長い夜』、も?また映画では、女性ではないけどパリ、18区、夜。ヘルツォークも)

 

 傑作で完璧だったし、ネタバレも何も、という感じなので、興味がある方は、読んだらいいと思う。

 

 

 

それから、また新たに読んでみたい本がいくつかあり、女性映画祭の後にまた発見もあるかもしれないからその時新たにまとめようかな...。

 

・スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの「戦争は女の顔をしていない」、

・About Sarah Kane the Playwright & the Work、

自分にとって、「尊敬する芸術家」である人たちのインタビュー集、

・Clair Denis, intimacy on the border

Pina Bausch, Source Book

 

Denisの本は、とりあえずWim Wendersの序文が、英語でもわかるほど素敵だった。

新作公開のDenis祭りとして、翻訳してみたい程..。