treasure

ニッポンヴィジョンズ審査員特別賞受賞作品 日本零年三部作第二部、『DUAL CITY』の情報は→ http://ek-stase.under.jp

日本零年三部作、第一作『イリュミナシオン』予告編

El auge del humano



/ The human surge (2016)

2015年ー2016年と、全く映画を観られなかった。

唯一覚えているのが、早稲田松竹のミッドナイト、デュラス特集でインディア・ソングをフィルムで。同映画館で王家衛。そしてアテネ・フランセブレッソン罪の天使たち」。それらの映画は相変わらずだった。相変わらず素晴らしく、相変わらず私を驚かせた。相変わらず音と映像は分離していて、非人間的で神秘的で、人々はじっと見ていて、変な感じだった。相変わらず映画の後は人恋しく、空気が新鮮になった。自分にとって映画が相変わらず、「秘密基地」で、映画の方は私を離すことも逃げることもなく、ただ、私がそうしたいと思うだけで、いつでも包んでくれるし、入り込ませてくれる、それが自然にわかった。どうしてこれほどまでに、映画と離れていたのだろう?とも思った。

最近まで同時に酷いライターズ・ブロックで、クリエイティビティを取り戻すエクササイズをしようとして『モーニングページ』をしてみたら、気づいたら20枚、30枚くらい文章を書いていたりとか..今もそれはやっているけれど、書いては、大量のノートを片っ端からシュレッダーにかけている。一つわかったことは、、自分の中のケイドロごっこ..私の中のレクター博士クラリス..そのどちらもが本気を出しきり、拮抗していないと車が進むことが出来ないのだと言うことだ。そして外は氷河期の様で、無理やり火をおこしていないと、全てはすぐに凍てつくのだった。でも同時に、それがわかったからどうだという感じでもあった、そんなことをしなくては、生き延びられないのなら。

去年、南米へ行く前に、Larry ClarkのTシャツを買った。裏に「death is more perfect than life」それに何故か怒りを感じ、マジックでわざわざ消した..。今では、その言葉は当然のことに思える。あらゆる高揚も、あらゆる胸騒ぎも、あらゆる悲しみも、あらゆる希望も、私というパーソナリティ自体も、脳内物質のバランス、ナントカフェタミン達のケイドロの結果に過ぎないのだ。

旅も脳内物質を出す、延命法だったのかもしれなかった..それでもいくつかの日常は、善悪関係なく、知ることができて良かったと思っている...チリの最後の日から何日か前に、この映画の冒頭の様に、雨で街が洪水になった。友達は、「悲しいことだが、これが第三世界だ」と私に言った。地区によっては水も出なくなった。水が出なくなるのはお金持ちが住んでいない地区で、ただ、ケネシスという、友達の弟の彼女の、何も喋らなくてスーパー・シャイだけど、時々笑う女の子のアパートも、ベジャビスタに似てるダウンタウンっぽい場所にあるけど、そこでは貯水タンクがあってかろうじてシャワーが使えるらしく、皆行って使わせてもらうとも言った。私には「撮れる」子と、「撮れない」子が、瞬時にわかるのだけど、ケネシスは会った時から、絶対撮れると思った。ケネシス(ジェネシス)という名前もいいと思った。「次サンティアゴにまた来たら」..そういったかなりハイコストなことも、信じられそうなくらい、「ケネシスのことは絶対撮れるな」と思った。 それは、何か、不思議な共感だ。こんなに遠い所に住んでいて、言葉もわからないけど、何か通じ合えそうな感じがする。...雨、日本なら小雨より強い程度でも、普段、あまり降らないからか?チリでは設備が整っていなくて凄いことになってしまう。テレビでは国の代表のような人がニュースに出ずっぱりで、川は溢れ、車が水の中で止まり、街中にたくさんいる犬も大変なことになっている。旅行前に構想していた、私の「写真計画」も「ドキュメンタリー計画」も、努力はしたが、完成しなかった。特に写真はフィルムを恥ずかしいくらい費やしたのに、「何も撮れなかった」と言っても過言ではない。しかしそれでむしろ良かった。もし何かを撮れる人間ならば、第三世界の欠陥を心から鬱陶しく、改善すべきものと思っていて欲しい。


この映画の冒頭、光のない、どこかわからない場所で、暴れまわるような、揉みくちゃにされるような堂々巡りの時間のあと、突如としてドアが開け放たれ、呆気に取られる大雨と、外の世界が射し込んでくる。

その後、面倒そうに水浸しの街をじゃぶじゃぶと歩いていく人たち、それをじゃぶじゃぶと横移動で追っていくカメラ。大変そうな撮影.......。ここからこの世界を愛さない理由はなかった。アルゼンチンの映画という知識があって、見たことがある風景、南米ではよくあること、それをとても近くで、今から見れると思ったから。でもそれから観ることができたのは南米だけではなかった、単にこの映画の撮影場所、モザンビークとフィリピンの三か国というわけでもない、私も含めた、現代の生だった。

環境と粘膜接触してるような人間達...実際、時間の中に生きていると考えれば、ただ生きているだけで、みんな同じ水の中にいるようなものだ...液体的なものは、インターネットや蟻が掘る、ネットワーク-穴を伝い、全く別の場所につながる--最近現れたはずのテクノロジーの光は、そこらじゅうを飛ぶ謎の電波/wifiは、無機質でわかりきっているかに見える資本主義のシステムとは懸け離れた、私たちの生態系の維持に必要な、有機的な何かに見えた。蛍が小さな光を発するように。一方で世界をここに存在させる、言葉もなく満ちている大きな光は、人々の体を当然のように包み、それを感じてうつしとるカメラは、人々をただ追いかけ、その感じられた時間に直接アクセスする様なこの映画は、夏の光の影時計のように目の前で繰り広げられ、その映画を見続けるこの私は、私の最近のメランコリーとは全く関係ない所で生きていた。メランコリー。数ヶ月前、ゲーテのメランコリーに打ち勝つのがどうとかを、苦々しく思った。(本当のメランコリーに沈んでいたのはレンツだった-社会で「大成」し、歴史に残った人間とは決定的に何かが違う--生きることや社会への意識の持ち方が--忌むべき野心.....メランコリーとは、真実との親和性ではないのか。人間の精神が、それに耐えられないだけで、虚無こそが本質であることに間違いはない。......でも一方で、ショウペンハウエルの「幼馴染が老人になってから再会したとしてそこには幻滅しかない、それが人生が幻滅であることの証拠だ」云々に、それは一番低次元での人間性なのではと思いもした---私はそれを体験していないから想定するだけだが--例えば映画の中では(自分が思い出したのは『山椒太夫』だったので極端で、それは現実ではなく創作的なカタルシスとも言えるのかもしれないが)、映画の中では、信じざるを得ない形で、人生の結果として、幻滅とは別のことが起こるのを見てきた。この映画の中でも、地球は回る、周り続ける、止まってないから美しい、私が見ても見なくても、生きてても死んでても。とても大きく、とても未知で、大いなること.....。「あること、生きること、素晴らしいと思うことすら、それは素晴らしいことなのだろうか?」と立ち止まることもしばしばな去年だったが、この映画を見ると、違う色のペンキをぶっかけられているようなのだ。そもそもの考え方..それがそもそも違うのだと........理由はわからないが、地球が丸くて、理由はわからないが、我々は(テクノロジーは)進歩しようとしていて、理由はわからないが、あらゆるものは生きている。ネリーの様に、死は魅力的に思える(嘘でも格好つけるわけでもなく)、クレンズドのように、全ては、死について考えることすらが、クソみたいに無意味に思える......ラリークラークのTシャツを着る時、マジックの二重線がすでにかすれてしまって私自身がそのメッセージを背負っているように、死は生より完璧だ、....その上でよく考えることは........物質的なものこそが、きっと生きる意味なのだろう。なぜなら死んで失くすのは、体---物質とアクセスする術、なわけだから。だから生きている間は光の粒に取り巻かれ、傷を作り、癒えるのに驚き、大雨に濡れ、冷え、温まり、エロティックな行為に生体反応し、子供みたいに時間の中で喜び、そして分離という制限こそが、課題なのだ。「Blood Music」のように、自分自身というものについて、孤独の中で時たま考える...それは与えられたチャンスなのだ。

一方で、死ぬということ、なくなるということが、個別性が消え、自然と統一されるということだとしたら、残るものは精神であり、精神的に、誰かを記憶し続けるということは、(懐疑的ではあったが)、やっぱりその誰かを生かし続けることなのだろう。一人一人がピースを持ち寄り、それを集合させて、死者について語り合うのを、単に、生きている人たちのためだけとは自分には思えなかった。私は単に、友情のようなものと考えている、死者でも。でも付き合い方はきっと違う、現代的な観点で言えば、妄想的になるのは必然なことだ。死者と、恐怖とは別の次元で、会話する。というのは。それに、死は確かに最後のセンセーションだ。最後の物語だ。セールスポイントにすらこの時代ではなる。でも、それでも、死について表現されているものを見るのが、私には必要だ。

死は、この映画の話とは関係ない。最近の私の根強かった関心だ。でもいま、それと拮抗することでもなく、互いに打ち消すのでもなく、全く別の形で、もしかしたら補うような形で、この映画が現れた。この映画の世界の広さは、ただ、広いというだけで、啓示だ。死の前に、この世界だけで、全然知らないことがあるのだと思い出させてくれるからだ。時間のフッテージで映画はできる。切れ端を構築すると、別の場所にあるひとつの時間にアクセスすることができるようになる。不思議なことだ。UFO-likeと言ってる人がいたけど、人間をそんな目で大きな好奇心を持ちながら、見つめることができたら。自分が波なのか、漂白された一個の粒なのか、修行も足りず、揺れている。映画は相変わらず、生きてるということから最も遠い装置であるのに、私に生身の人間や世界を垣間見せ、それは二元論の外へ、言葉の外へ、魂を一瞬、旅行させる。それはどこまでも現実的で、とてもスリルがある。